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○ | 慶応元年(1865) 因幡鳥取藩士の長男として江戸藩邸に生まれ、8歳より高崎に住む。母方の養嗣子となり村上姓となった。 |
○ | 明治25年(1892) 実父と妻スミを失い、二女を抱え悲嘆にくれる。はじめて作句をする。 美しきほど哀れなりはなれ鴛(おし) |
○ | 明治27年(1894) 高崎裁判所構内代書人となり鞘町に住む。翌年松浦ハツと結婚。 |
○ | 新聞『日本』の俳論を通して正岡子規を深く尊敬した鬼城は、34歳のときその教えを乞い投句、作句に励んだ。 |
○ | 子規校閲『新俳句』に9句載る。 |
○ | 明治41年(1908) |
○ | 大正2年(1913) 高崎俳句大会において高浜虚子の推讃を受け、鬼城は広く世に知られるようになった。 鬼城の句は。「芭蕉に追随し、一茶に優る」"境涯の句"として高く評価される。 |
○ | 大正6年(1917) 名著大須賀乙字編『鬼城句集』刊行。 |
○ | 大正15年(1926) 自選『鬼城句集』大阪鬼城会より刊行される。 |
○ | 昭和2年(1927) 活動の本拠であった鬼城旧居が類焼。 |
○ | 昭和3年(1928) 64歳、門人らの助力があって鬼城草庵を再興。鬼城はこれを『並榎村舎』と呼んだ。ここを拠点に鬼城は、俳誌『櫻草』を刊行し、添削会『白梅会』を発足させた。 |
○ | 昭和7年(1932) 『続鬼城句集』を刊行し、句会を指導する傍ら、揮毫と俳画の製作に余念がなかった。 |
○ | 昭和13年(1938) 74歳、健康を損ない、自ら「寒負け」と称して引き籠もっていたが、9月17日上毛の風土を慈しみ高崎に生きた俳人・鬼城はその生涯を終えた。青萍院常閑鬼城居士。墓所は高崎山龍廣寺。(高崎市指定史跡) |
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